遠い日の想いを飲み干した晩の翌朝。スカッとした太陽が昇りました

スカッと

私はバーで働いています。

バーの酒棚には、それぞれの店の個性があるのです。

私の店の酒棚にも、一つの物語りがあります。

バーテンダーは店の品添えをする時に、御客様からの注文を想定して、どうやって対応するかを考えます。

だけど、それだけではありません。どのバーテンダー達にも、ある想いを持ってバックバーに置いておく酒が一本はあるのです。

お客様の心に染み入るお酒を提供出来た時に私も喜びを覚えます。

私の店が開店した当初に、よく二人で来店していた御客様が、最後の一杯に決まって飲む酒がありました。

陽気な男性客と物静かな女性客。

ある日、こんな事がありました。

女性客が
「なんでバーテンダーになられたんですか」と尋ねたので、私は
「今夜、あなたたちに逢う為です」と答えた事がありました。

あの時は決まったなぁと思いましたね。

普段は物静かな女性客も嬉しそうに大笑いしていらっしゃいました。

そんな日々が続いて数年が経ちました。

ある時から御二人の来店が途絶えました。

私は随分と月日が過ぎてから、その女性が、お亡くなりになったと、人づてに聞いたのです。

連れの男性は、今では数年に一度、来店する程度ですが、その酒を飲む事はありませんでした。

しかし、彼にとっては、その酒が私の店に在るのは、疑う余地の無い当然の事なのです。

いつか彼が、その酒を飲みたいと想った時に、提供出来る日が来る事を私は知っていました。

だから世界中のどのバーにも、どのバーテンダー達にも、ある想いを持ってバックバーに置いておく酒が一本はあるのです。

私のバックバーには『オールドブッシュミルズ10年のシングルモルト』がいつか飲まれる日を待って静かに佇んでいます。

ある雨の日。

バーの扉が開いた店先に、その男性が立っていました。

男性がオーダーしたのは、もう20年も昔の懐かしい酒でした。

ラヂオから流れるデュークエリントンの調べに乗って、外の雨音が彼に語りかけてくるのは、どんな声だったのでしょう。

その男性は、ゆっくりと一杯の酒を味わい、笑顔で帰られました。

次の日の朝、雨は上がり青い空が広がっていました。

私が本当にバーテンダーになって良かったと思った経験です。

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